実は生涯でいちばん長くお世話になった仕事は子ども向けの教材作成なんですね、私は。学校やめてすぐにその業界に足を突っ込んで、最後の仕事が41歳のときでした。そればっかりやってきたわけではないですけど、なんだかんだいって20年近く、問題集をつくっていたわけです。いちばんメインにしていたのが「教科書準拠」と呼ばれる基礎学習向け問題集で、たぶんこれまでの生涯賃金の半分以上はそこから得てきています。
で、だからこそいうんですが、たとえば学校教育のICT化が「デジタル教科書」のようなものであってはならんだろうなと、そう思います。無意味ですよ。
いえ、教育現場にICT、特に生徒1人1台持ちのタブレットタイプの端末が入っていくことについては、私は賛成なんですね。自分が生徒だったらワクワクするだろうと思うんです。まあそれは、使い方を知っているからですけどね。とはいえ、使い方は教えれば済む話です。IT機器の使い方を教えることがICT教育ではないにしても、それは少しぐらいは必要でしょう。その上で、使い方がわかればこれは子どもたちの強力な武器になります。
ただ、その用途がデジタル教科書の閲覧専用デバイスでは、何の意味もないと思うわけです。専用でなくても、それをメインに考えたらダメでしょうね。
なぜなら、教科書というのは本当につまらないからです。教科書を隅から隅まで何年も読みつくしてきた人間がいうんだからまちがいないですよ。
たしかに、教科書の編集には膨大な手間がかかっています。そういう意味ではハイクォリティです。内容もよく考えられています。同じ一つのことを子どもに教えるのでも、「ああ、このもっていき方はうまいなあ」と感心するメソッドが使われていたりします。私のような半端な編集者がいくら頑張ってもその水準には近づけないのが教科書というものです。
けれど、それは教科書という概念の枠内だけで話した場合のことですよ。じゃあ、教科書って何なんでしょう。
現実、つまり、学校という制度、もっといってしまえば試験によって人を等級付ける仕組みの中では、教科書というのはルールブックなんですね。いえ、もっと上位のルールブックとして指導要領というものがあります。けれど、子どもは指導要領を読みません。指導要領を実際に形にしたものが教科書です。そして、これが試験というゲームのルールブックということになります。
そりゃあ特殊なテクニックとか、「これは教科書に載っていませんから」と教師が勿体をつけて教える知識とかもあります。けれど、実際のところ、競争の上で重要なテスト、たとえば入学試験なんかで合格点をとるためには、教科書に書いてあることで事足りるんですね。もちろん「事足りる」ためには教科書の行間を読むぐらいのバックグラウンドの知識が必要です。けれど、教科書で(つまり指導要領で)扱わないことは試験には出さないという原則が教育現場にはあります。はみ出すことがあっても、それは教科書の記載から類推されたり教科書の記載を少しだけ延長して得られる程度の範囲に収まるようにするのがルールです。事実、指導要領外の出題が公立高校入試なんかでうっかり出たりしたら、新聞で叩かれるぐらいですから。
多くの人の誤解とは裏腹に、実は教科書程度のことが完璧に理解できていたら相当な優等生になれるんですよ。逆に、教科書に書かれている以上の知識や洞察力をいくら身につけたって、点取り競争的な意味では役に立ちません。つまり、教科書ってのは、点取り競争のルールを決めているわけです。教科書だけでは役に立たない、もっと高度な知識が必要だなんて塾の教師がいくら強調したって、それは実は教科書の定めた枠内のことをより徹底的に、より効率よく理解するためには別のツールが必要だっていう話でしかないわけです。それが教科書ってもんです。
で、教科書がつまらないのはこの一点に尽きるわけです。いくら手のこんだエディトリアル、金をかけた作り込み、工夫に満ちた著述があっても教科書が面白くないのは、それが読者、つまり生徒たちに人工の画一的な枠組みを押しつけるからです。知性の働きというのはそういうもんじゃない。思いもかけない形で無制限に広がっていくもんです。本来教育とは、そういう知性の働きを助けるもののはず。ところが実際に行われているのは、無意味な競争による選別のための訓練です。そんな現場には、紙の教材だろうがデジタル教材だろうが、なにを持ち込んだって本質は無味乾燥なものですよ。
だから、教育現場にデジタルデバイスを持ち込むんだったら、それを制限をかけちゃいけないんです。無限のWebの海に漕ぎ出す乗り物として与えるときに、はじめてこれらの情報端末に意味が生まれます。それはちょうど、学校の図書館に置く本に制限をかけてはいけないのと同じことです。異教の本でも非科学的なトンデモ本でも、図書館に置く本を検閲してはなりません。それが自由な知性のはばたきを妨げるからです。無数の屑の中から本物を選ぶ力は、まず無数の屑が存在することを知らなければ生まれません。同じことです。
新しき酒は新しき革袋に盛れといいます。新しき革袋は、必然的に新しき酒を要求するわけです。旧来の「教科書」の概念を新しいデバイスに持ち込むべきではありません。新しいデバイスには新しい情報源としての役割があるはずです。それは、枠組みを定めるための情報ではなく、枠組みを壊していくための情報であるように私には思えます。
教科書なんか要らない、Webそのものが教科書だと、私はそんなふうに思うんですね。Webの向こう側にいる人間、Webを創りだした人間の社会が見えるから、Webは子どもにとっても大きな学びの場になると思います。それを教育に取り込んでいこうというのなら、これは面白い展開が待っていそうです。
そのときに、既存の学校制度がそれに耐えられるのか。たぶん耐えられないでしょう。教科書の枠組みのなかで人間に順列をつけていくことが求められる学校制度は、枠組みを壊してしまえば成り立ちません。そして学校制度が成りた立たなくなるとき、その学校制度を基礎にした社会制度だって、変革を迫られます。そのぐらいの破壊力がICTにはあると思うし、それを無視してただ旧来の紙と鉛筆の代わりぐらいに扱うのなら、それはずいぶんつまらないし、たぶん現実に取り残されていくだけなんだろうと、そんな不幸な未来さえ予感してしまいます。
社会の根本を変革していく──そこまでの覚悟でデジタルデバイスを導入するつもりは、たぶんいまの教育界にはないでしょう。だから、子どもたちにデジタルデバイスを与えても、実質的にそれは予算の無駄遣いにしかならないような気がしますね。制限をかけて、魅力のないものにしてしまい、そしてだれも使わなくなる。もったいない話です。
となると、とりあえず期待できるのは教務・校務関係のICT化による業務改善でしょうか。けど、それって一般の企業の業務改善と基本的に同じことなわけで…。
なんだか冴えない話です。


コメント